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千代田 (防護巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千代田
基本情報
建造所 トムソン社[1](スコットランド・クライドバンク[2])
運用者  大日本帝国海軍
艦種 三等巡洋艦[3](帯甲巡洋艦[4])
母港 (1915年4月1日時点)[5]
艦歴
発注 1888年10月製造命令[6]
起工 1888年12月4日[7]
進水 1890年6月3日[8][7]
竣工 1891年1月1日[7]
除籍 1922年4月1日軍艦籍[7]
1924年2月21日特務艇籍[9]
その後 1927年2月28日廃船[10]
1927年8月5日海没処分[11]
要目
排水量 2,439英トン(常備[12])[13][1]
公試時:2,430英トン[14]
水線長 310 ft 0 in (94.49 m)[15]
垂線間長 302 ft 0 in (92.05 m)[15]
または92.0m[12]
水線幅 42 ft 0 in (12.80 m)[1]
または42 ft 7 in (12.98 m)[15][16]
あるいは13.0m[12]
吃水 平均:14 ft 0 in (4.27 m)[15][1][1]
または4.3m[12]
ボイラー 汽車 6基[17][12][18]
1920年時:ベルビール缶 12基[1]
主機 直立3段3気筒レシプロ 2基[19][12]
または横置3段3気筒レシプロ[17] 2基[1]
推進 2軸[19]
出力 5,675馬力[17]
または5,678馬力[1][12]
あるいは5,600馬力[19]
公試:4,104馬力[14]
自然通風:1,684馬力[20]
速力 計画:19ノット[21]
公試:18.3ノット[14]
1920年時:17ノット[1]
燃料 石炭庫量:427トン[20]
1904年:石炭390トン[22][14]
1920年調:石炭420トン[1][18]
乗員 1889年7月定員:300名[23]
兵装 竣工時[12]
40口径12cm単装砲 10門
保式47mm砲 14門
諾式8.5mm5砲身機砲 3基
35.6cm水上魚雷発射管 3門
1920年時[1]
安式12cm砲 10門
保式5cm砲 14門
麻式6.5mm機砲 1基(警備時は2基)
装甲 水線92mm、甲板35mm[12]
または舷側:4.5in(114mm)、甲板:1.5in(38mm) - 1in(25mm)[24]
搭載艇 1920年時:8隻[1]
その他 船材:[7]
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千代田(ちよだ)は、日本海軍の三等巡洋艦[25][3]。 艦名は江戸城(宮城)の別称に由来する[26][10]。 「千代田」の艦名は、明治初期の千代田形[27][28]に続いて2代目[10]

概要

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本艦はフランスで建造・竣工した防護巡洋艦畝傍[27]が日本への回航中に行方不明となったため、同艦の保険金を原資に代艦として建造された[10][29]。 日本海軍からの要求仕様を基にルイ=エミール・ベルタンが基本計画をまとめ、イギリスのトムソン社で建造された[12]

類別等級が制定された時には三等巡洋艦に類別[3][10]日清戦争では黄海海戦の勝利の原動力となり[30][12]日露戦争に参加した[10]。 旧式化により、1912年(大正元年)8月28日附で二等海防艦に類別変更される[31][10]第一次世界大戦にも参加した[12]1921年(大正10年)4月14日、水雷母艦に類別変更[32]。 翌年、軍艦籍より除かれ[33]潜水艦母艇となる[34]。 1924年(大正13年)12月に特務艇籍より除かれ練習船として運用される[9]1927年(昭和2年)に廃船とされ[10]、 実艦的として処分された[11]

艦型

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本艦は舷側装甲を持つことから日本初の装甲巡洋艦[35](Armored cruiser)として扱われることもあるが、その装甲範囲は水線部に状の狭い代物でイギリス海軍の「オーランド級巡洋艦」と同じくBelted cruiser(帯甲巡洋艦、または装甲帯巡洋艦と和訳)である、と中川努は述べている[4]。 また『海軍軍備沿革』では鋼甲帯巡洋艦としている[13]。 砲熕としてアームストロング社の4.7インチ速射砲2門を初めて搭載した[35]

艦の構造を前部から記述すると、水面下に衝角が付き、水線部に35.6cm水中魚雷発射管1門が付く艦首、艦首甲板上に主砲の12cm速射砲は防盾の付いた単装砲架で1基、頂上部に見張り所を持つ単脚式の前部マストが立つ。その背後に両脇に船橋(ブリッジ)を持つ操舵艦橋が配置され、船体中央部に1本煙突が立つ。その周囲には煙管型の通風塔が立ち並び、空いた場所は艦載艇置き場となっており、艦載艇は2本1組のボート・ダビットが片舷4組で計8組により運用された。煙突の後方に中央マストが一本立ちその左右の舷側に大小さまざまな張り出しが設けられ、そこに12cm速射砲を片舷4基を配置し、挟み込まれるようにその間に4.7cm速射砲を3基配置した。後部甲板上に後部マストと12cm速射砲が後ろ向きに1基が配置された。[要出典]

防水区画と各室が計84あり、間接防御が向上していた[35]

機関

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竣工1年ほどで、ボイラー燃焼筒に垂下する場所が出て、支柱を立てて抑えており、最終的には蒸気圧を下げて運転していた[36]

計画要目

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計画要目は以下の通り[21]

  • 排水量:2,133トン
  • 垂線間長:100m
  • 幅:11.10m
  • 吃水:平均4.11m
  • 帆布面積:718.80m2
  • 出力:強圧通風5,530馬力、自然通風2,400馬力
  • 速力:19ノット
  • 燃料:石炭225英トン
  • 航続距離:4,900カイリ / 10ノット
  • 乗員:300名
  • 兵装:38口径12cm砲11門、47mm速射砲6門、37mm旋回砲10門、魚雷発射管3門、魚雷7本、
  • 装甲:甲板10mm板+15mmクロム鋼板、同傾斜部10mm鋼板x2+60mmクロム鋼板、艦長待避所30mm

公試成績

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実施日 種類 排水量 回転数 出力 速力 場所 備考 出典
1921年3月30日 修理公試 2,599トン 95.88rpm 697.11馬力 9.60ノット 広島湾 [37]

艦歴

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建造

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1888年(明治21年)9月27日、日本海軍はイギリスで建造の巡洋艦を千代田と命名する[38][25]12月4日、本艦はイギリスグラスゴーのトムソン社で起工[10]。1890年(明治23年)6月3日、進水[39]。 同年8月23日、第一種と定められる[40]1891年(明治24年)1月1日、竣工[10]。日本に回航され、同年4月11日、横須賀に到着した[10][41]

日清戦争

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日清戦争にあたり、従軍記者として国木田独歩が乗艦した[42]黄海海戦大連旅順威海衛澎湖島攻略作戦等に参加[10]1895年(明治28年)2月26日、「千代田」は鹵獲した清国巡洋艦「広丙」と共に威海衛を出発[43][44]。3月5日に呉へ帰投、国木田も退艦した[45]

修理

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1897年から翌年にかけて、呉造船廠で主罐をベルヴィール式石炭専焼水管缶に換装した。 また1898年に戦闘檣(ファイティング・トップ)が取り外された[35]

1898年

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1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は軍艦及び水雷艇の類別等級を制定、3,500トン未満の巡洋艦を「三等巡洋艦」と定義する[46]。当時の日本海軍在籍艦5隻(和泉千代田秋津洲須磨明石)が三等巡洋艦に類別された[47][3]

マニラ派遣

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同年、米西戦争により邦人保護のためマニラに派遣。

義和団の乱

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義和団の乱では1900年10月から12月にかけて大沽芝罘方面に派遣された。

日露戦争

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日露戦争に際しては、仁川沖海戦旅順攻略作戦日本海海戦樺太作戦等に参加[10]1904年(明治37年)7月26日、大河湾へ進出して日本軍を攻撃していたロシア艦隊を第五戦隊と第六戦隊が旅順まで追跡した際、「千代田」は触雷して死者7名負傷者27名を出した[48]。9月から翌月にかけ横須賀工廠で修理を行った。

大修理

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1909年(明治42年)9月大修理[1]

1910年

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1910年(明治43年)5月中旬、「千代田」(艦長磯部謙中佐)は宇品(広島県)へ回航、饒津神社300年祭に関連して5月15日から18日まで一般公開された[49]

1912年

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1912年(大正元年)8月28日、艦艇類別等級表の改訂により[50]、本艦は二等海防艦(7,000トン未満)に類別変更[51][31]

第一次世界大戦

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第一次世界大戦では、青島攻略戦に参加。さらにマニラへ派遣され、中国沿岸水域の警備に従事した。

潜水母艦

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1919年6月から翌年3月にかけて呉海軍工廠で潜水母艦に改造、 大檣が撤去された[52]。 「千代田」は1921年(大正10年)4月14日附で、海防艦から水雷母艦に類別変更された[53][32]。 1922年(大正11年)4月1日、千代田は軍艦籍より除かれ[10][33]、 艦艇類別等級表からも削除された[54][55]。 「千代田」艦首の菊花紋章も返納された[56]。 千代田(と見島)は特務艇に編入、潜水艦母艇となる[34]

練習船

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1924年(大正13年)12月1日特務艇籍を除かれ雑役船に編入[9]、 練習船に指定され、海軍兵学校附属となり[9]、 12月6日より1926年(大正15年)10月1日まで海軍兵学校の練習船を務めた[57]

廃船、処分

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1926年(大正15年)12月20日、日本海軍は「千代田」を調査、老朽化が著しいため廃船が妥当と報告する[58]1927年(昭和2年)2月4日、廃船認許[59]、 同年2月28日、廃船[10]。 「千代田」は実艦的として撃沈処分されることになった[60]。標的としての改造工事を実施[61]。 同年8月3日午前9時、佐伯湾(大分県)に昭和天皇(扶桑型戦艦2番艦「山城」乗艦)と護衛の峯風型駆逐艦(帆風羽風秋風太刀風)が到着する[62][63]8月5日朝、佐伯湾には連合艦隊の主力艦艇多数が集結していた[64]。 午前10時、御召艦「山城」は佐伯湾を出港[65][11]。 同日午後、旧「千代田」は豊後水道沖合で空母鳳翔航空隊および水上機母艦能登呂航空隊の爆撃演習の実艦的となり、沈没した[11]。 沈没位置は北緯32度18分0秒、東経131度56分15秒[66]。 戦技終了後、昭和天皇一行(山城、帆風、羽風、秋風、太刀風)は佐伯湾へ戻る連合艦隊各艦(長門陸奥)等と別れ、奄美大島(鹿児島県)へ向かった[11][67]。長門に便乗して見学していた高松宮宣仁親王少尉も、配属先の「比叡」に戻った[67]

その後、撃沈される前に取り外した千代田の艦橋は海軍兵学校の号令台として使われていたが、敗戦後撤去された。

艦長

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※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長
艦長
  • 新井有貫 大佐:1890年1月10日 - 1891年6月17日
  • 千住成貞 大佐:1891年6月17日 - 1892年9月5日
  • 有栖川宮威仁親王 大佐:1892年9月5日 - 1893年10月12日
  • 尾本知道 大佐:1893年10月12日 - 1894年2月26日
  • 内田正敏 大佐:1894年2月26日 - 1895年9月28日
  • 伊藤常作 大佐:1895年9月28日 - 1897年5月15日
  • 外記康昌 大佐:1898年5月3日 - 1899年5月1日
  • 井上敏夫 大佐:1899年5月1日 - 9月29日
  • 成川揆 大佐:1899年9月29日 - 1900年6月7日
  • 松本有信 大佐:1900年6月7日 - 1901年2月4日
  • 坂本一 大佐:1901年2月4日 - 10月1日
  • 毛利一兵衛 大佐:1903年4月12日 - 7月7日
  • 村上格一 中佐:1903年7月7日 - 1905年1月12日
  • 東伏見宮依仁親王 大佐:1905年1月12日 - 12月20日
  • 山本正勝 中佐:1905年12月20日 - 1906年10月4日
  • 築山清智 大佐:1906年10月4日 - 1907年5月2日
  • 森亘 大佐:1907年5月2日 - 1908年2月20日
  • 大沢喜七郎 大佐:1908年2月20日 - 9月25日
  • 山中柴吉 大佐:1908年9月25日 - 1909年3月10日
  • (兼)兼子昱 中佐:1909年3月10日 - 5月22日
  • 釜屋六郎 中佐:1909年5月22日 - 12月1日
  • 磯部謙 中佐:1909年12月1日 - 1911年10月25日
  • 桜野光正 中佐:1911年10月25日 - 1911年11月27日
  • 町田駒次郎 大佐:1911年11月27日 - 12月22日
  • 永田泰次郎 大佐:1911年12月22日 - 1912年6月18日
  • 山岡豊一 大佐:1912年6月18日 - 12月1日
  • 久保来復 大佐:1912年12月1日 - 1913年11月5日
  • 長鋪次郎 中佐:1913年11月5日 - 1914年5月6日[68]
  • 堀田弟四郎 大佐:1914年5月27日 -
  • 島内桓太 中佐:1914年8月23日 - 12月1日
  • 山下義章 大佐:不詳 - 1915年12月13日
  • 小牧自然 中佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
  • 中川寛 中佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日[69]
  • 上田吉次 大佐:1917年12月1日 - 1918年12月1日
  • 藤村昌吉 大佐:1918年12月1日[70] - 1919年12月1日[71]
  • 石渡武章 大佐:1919年12月1日[71] - 1920年6月1日[72]
  • 加藤弘三 中佐:1920年6月1日[72] - 1920年12月1日[73]
  • 水谷耕喜 大佐:1920年12月1日[73] - 1921年12月1日[74]
  • 木村豊樹 中佐:1921年12月1日[74] -

脚注

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注釈

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出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その一「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
  2. ^ #日本の戦艦(上)2001p.20
  3. ^ a b c d #達明治31年3月(1)pp.16-17『達第三十五號 軍艦及水雷艇ノ類別等級別紙ノ通定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵西郷從道 |軍艦|巡洋艦|三等|和泉、千代田、秋津洲、須磨、明石|』
  4. ^ a b #中川(2011)千代田
  5. ^ #内令提要7版/艦船(1)画像1-3、艦艇本籍別一覧表 大正四年四月一日調。
  6. ^ #帝国海軍機関史(1975)別冊表4、自明治元年至明治二十七年 主機械罐制式発達一覧表
  7. ^ a b c d e #艦船名考(1928)pp.18-19
  8. ^ #明治の海軍物語コマ171(原本325頁)『(艦名)千代田|(艦質)鋼|(噸數)二,四三九|(速力)一九.〇|(乗員)三〇六|(進水年月日)二三、六、三|(製造所)英國』
  9. ^ a b c d 大正13年12月1日(月)海軍公報(部内限)第1215号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070295500 『○令達 官房第三六三一號 舊潜水艦母亭千代田ヲ雑役船ニ編入シ其ノ船種、船名及所属等左ノ通定ム 大正十三年十二月一日 海軍大臣財部彪 |(艦種)練習船|(船名)千代田|(所属)海軍兵學校|(記事)二河川代船』
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ37(原本46頁)『千代田(ちよだ) 艦種巡洋艦 三檣(戰闘檣あり) 艦名考前掲「千代田形」の項(p.11)参照。艦歴亡失艦畝傍代艦として建造せられたる艦にして明治14年4月11日本邦に到着。明治27・8年戰役從軍:同27年8月威海衛砲撃に、同9月黄海々戰に、同11月大連港及び旅順口占領に從事、同28年2月威海衛總攻撃及同地占領に從事、同3月澎湖島攻略及同島占領に從事、同31年3月三等巡洋艦に列す。同37・8年戰役に從軍(第六戰隊):同37年2月9日仁川沖海戰に参加(艦長大佐村上格一)、同38年5月日本海々戰に参加(艦長大佐依仁親王殿下)、大正元年8月2等海防艦に編入。同3年乃至9年戰役に從軍:大正3年8月青島戰参加(艦長中佐島内桓太)、同8年12月第三艦隊に属し南支那海方面警備、同10年水雷母艦に編入、同11年4月1日軍艦より除籍、特務艦となり、昭和2年2月28日特務艦籍より除かる。
    ―要目― 長308呎/幅43呎/吃水17呎/排水量2,450噸/機關 三聯成汽機2基雙螺旋ベルビル罐12/馬力5,400/速力19/乗組人員350/船材 鋼/兵装 12拇安式速射砲 10/47粍砲 14/備砲 3/發射管 3/起工 明治21-12-4/進水 同23-6-4/竣工 同24-1-1/建造所 英國グラスゴートムソン會社』(注:特務艦は特務艇の誤り)
  11. ^ a b c d e #昭和天皇実録四巻748-749頁『(昭和二年八月)五日 金曜日(戦技御覧の終了/奄美大島へ向け御航海)』
  12. ^ a b c d e f g h i j k l #日本巡洋艦史(2011)p.26
  13. ^ a b #海軍軍備沿革p.48
  14. ^ a b c d #帝国海軍機関史(1975)下巻p.281、戦役従軍艦艇及其の最近高力運転成績。
  15. ^ a b c d #日本の戦艦(上)2001p.106
  16. ^ #日本近世造船史明治(1973)p.451
  17. ^ a b c #帝国海軍機関史(1975)別冊表5、自明治元年至明治二十八年 軍用機関内外発達対照表
  18. ^ a b #日本の戦艦(下)2001p.42
  19. ^ a b c #日本の戦艦(下)2001p.48
  20. ^ a b #帝国海軍機関史(1975)下巻p.76(第三巻六四頁)
  21. ^ a b #公文備考別輯/軍艦千代田製造書(1)画像24-27,30-33
  22. ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.263、戦役中艦艇石炭搭載成績表
  23. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.175-176、明治22年7月27日(達290)千代田八重山定員
  24. ^ #日本の戦艦(上)2001p.216
  25. ^ a b #達明治21年9月p.12『達第九十九號 英國ニ註文セル巡洋艦ヲト命名セラレ風帆練習艦第一回漕ヲタテヤマト改名セラル此旨心得ヘシ 明治二十一年九月廿七日 海軍大臣伯爵西郷從道』
  26. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実第17コマ(原本11頁)『千代田形(ちよだがた) 艦種砲艦 二檣「スクーナー」型 艦名考千代は徳川幕府の治所江戸城(現今の宮城)の別稱なり、艦名の下に「形」の字を付したるは其形式(タイプ)を意味するものならん、幕府時代の船舶中、伊豆下田に於て建造せるものに君澤形、長崎に於て建造せるものに長崎形の名のあるを見る、蓋し同指なり。
    艦歴本艦は外國人の手を假らず本邦人に依て設計建造せられたる最初の蒸汽船なり、文久2年戌年5月起工、同3亥年7月進水、慶應2寅年5月竣工即ち進水より竣工まで約3ヶ年を費したるは、其間機關計畫者和蘭國へ出張の事あり、歸朝後、機關据付を爲したる等、工程に遅延を生ぜしことありしに由る。明治2年5月函館の役に於て官軍に収容せられ爾來帝國軍艦籍に在りて種々の役務に服せしが、明治21年1月除籍せられ、船體は之を千葉縣に交付せり。(要目略)』
  27. ^ a b 明治17年6月5日官報第179号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ1『○海軍省丙第九拾號 海軍一般 今般佛國ヘ新造注文セシ軍艦ヲウネト命名ス此旨爲心得相達候事 海軍卿 川村純義|○海軍省丙第九拾壱號 海軍一般今般横須賀造船所ニ於テ製造スヘキ一等砲艦ヲアタ 巡洋鉄艦ヲタカト命名ス此旨爲心得相達候事 海軍卿 川村純義
    ○海軍省丙第九拾貳號 海軍一般 東海鎮守府所轄千代田形艦自今豫備艦ト相定ム此旨相達候事 明治十七年六月五日 海軍卿 川村純義』
  28. ^ 明治21年1月28日官報第1372号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○海軍省告示第一號 東、雷電、千代田形ノ三艦艦籍ヨリ除名セラル 明治二十一年一月二十八日 海軍大臣伯爵西郷從道』
  29. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ22『明治二十年 畝傍ノ保險金一,二四五,三〇九圓ノ収入ニヨリ其ノ代艦トシテ千代田ノ製造ニ着手シタル外、八重山及水雷艇小鷹ヲ起工シ葛城及大和ヲ竣工ス』
  30. ^ #愛弟通信コマ141-142(原本272-275頁)『最幸にして最戰功ある千代田艦』
  31. ^ a b #達大正元年8月p.33『達第十二號 艦艇類別等級別表ノ通改正ス 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵齋藤實 艦艇類別等級表|軍艦|海防艦|二等|沖島、見島、高千穂、嚴島、橋立、千代田、秋津洲、鈴谷、満州、豊橋、韓崎、葛城、大和、武藏、松江』
  32. ^ a b #達大正10年4月(3)p.31『達第七十五號 艦艇類別等級別表中海防艦ノ欄「千代田、」ヲ削リ水雷母艦ノ欄「迅鯨」ノ下ニ「、千代田」ヲ加フ 大正十年四月十四日 海軍大臣男爵加藤友三郎』
  33. ^ a b #達大正11年4月(1)pp.1-2『達第四十七號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 津輕/軍艦 橋立/軍艦 武藏|呉鎮守府在籍 軍艦 周防/軍艦 千代田/軍艦 大和|佐世保鎮守府在籍 軍艦 沖島/軍艦 見島 右帝國軍艦ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 薄雲/驅逐艦 不知火|呉鎮守府在籍 驅逐艦 朝潮/驅逐艦 白雲/驅逐艦 村雨/驅逐艦 朝霧/驅逐艦 陽炎 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|呉鎮守府在籍 第六十七號水雷艇/第六十八號水雷艇/第七十号水雷艇/第七十一號水雷艇|佐世保鎮守府在籍 水雷艇 雁/水雷艇 蒼鷹/水雷艇 鴿/水雷艇 燕 右帝國水雷艇籍ヨリ除カル|大正十一年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎』
  34. ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ73『大正十一年四月一日(内令一一〇)特務艇類別等級別表中左ノ通改正ス 掃海艇二等ノ欄内「叢雲」「夕霧」ヲ削リ「薄雲、」「不知火、」「朝潮、」「白雲、」「村雨、」「朝霧」ヲ加ヘ潜水艦母艇ノ欄内「椅子山」ヲ削リ「千代田、」「見島」ヲ加フ』
  35. ^ a b c d #日本の戦艦(上)2001p.29
  36. ^ #帝国海軍機関史(1975)上巻pp.927-928(第二巻五五九頁から五六〇頁)
  37. ^ #T10公文備考28/修理画像4-5
  38. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ197『◎巡洋艦千代田及風帆練習艦館山命名ノ件 明治二十一年九月二十七日(達九九)』
  39. ^ #帝国軍艦帖コマ99-100『二等海防艦 千代田 一、進水年月日 明治二十三年六月三日/一、排水量 二千四百五十噸/一、馬力 五千六百馬力/一、速力 十六節/一、主砲 四吋七砲一門/一、建造地及建造所 英國グラスゴーダムソン會社/一、日清戰爭に参加したる際重要なる事項 黄海海戰に参加し清國北洋艦隊を撃破す、清國水雷艇左隊第一號を撃破す、清國軍艦廣丙を捕獲す/一、日露戰爭に参加したる際重要なる事項 仁川沖海戰に参加し露國軍艦「ワリヤーグ」及「コレーツ」を撃破す、日本海々戰に参加し露國第二第三太平洋艦隊を撃滅す/一、日獨戰爭に参加したる際重要なる事項 青島攻略戰に参加す/一、其他特に重要なる事項―以上』
  40. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ49『◎軍艦種別の件 明治二十三年八月二十三日(達三〇四)横須賀鎮守府所管軍艦浪速、扶桑、高雄、武藏、八重山、橋立、筑波、愛宕、天城ヲ第一種ト定メラレ水雷艇小鷹、第一水雷艇、第二水雷艇、第三水雷艇、第四水雷艇ヲ第二種ト定メラレ軍艦龍驤、迅鯨、淺間、干珠ヲ第三種ト定メラレ呉鎮守府所管軍艦金剛、比叡、大和、筑紫、摩耶、赤城、嚴島、千代田、天龍、鳳翔ヲ第一種ト定メラレ軍艦館山、石川ヲ第三種ト定メラレ佐世保鎮守府所管軍艦高千穂、葛城、磐城、松島、千鳥、大島、秋津洲、日進、海門、鳥海ヲ第一種ト定メラレ軍艦春日、満珠ヲ第三種ト定メラル』
  41. ^ 明治24年4月13日官報第2332号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○軍艦發箸 呉鎮守府練習艦館山及同府軍艦赤城ハ一昨十日呉港ニ投錨、佐世保鎮守府軍艦磐城ハ同日佐世保港ニ投錨、呉鎮守府軍艦千代田ハ一昨十一日午前五時三十分安全ニ横須賀港ニ到着セリ(海軍省)』
  42. ^ 国木田独歩「軍艦千代田より」『独歩書簡』新潮社、1910年5月https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/889192/86 
  43. ^ #愛弟通信コマ139(原本269頁)『分捕艦の回航(三月六日於廣島)▽二十六日午前十時威海衛を抜錨、橋立は濟遠、平遠を率ひ、千代田は廣丙を率ひ、共に回航の途に上りたり。』
  44. ^ #愛弟通信コマ142-144(原本275-278頁)『敵艦廣丙號捕獲詳報告(三月九日 於廣島)』
  45. ^ #愛弟通信コマ140(原本271頁)『▽三日午後三時竹敷港を發し、四日の朝馬關海峡を過ぎ、其據は屋代島の一小灣に明かし、五日午前十一時半頃、宇品港に着したり。廣丙は宇品に止め、千代田は呉港に入りぬ。余、国木田哲夫は直ちに退艦したり。』
  46. ^ #達明治31年3月(1)pp.14-15『達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵西郷從道』
  47. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ50『◎軍艦及水雷艇類別等級 明治三十一年三月二十一日(達三五)軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム(別紙)』
  48. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』138-139ページ
  49. ^ 林保登(静処) 編「軍艦千代田の拝観」『饒津神社三百年祭典記録』饒津神社社務所、1910年11月https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815908/74 
  50. ^ #達大正元年8月p.32『達臺十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵齋藤實』
  51. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ56『◎艦艇類別等級 大正元年八月二十八日(達一二)艦艇類別等級別表ノ通改正ス(別表)』
  52. ^ #T10公文備考26/撤去画像2-5
  53. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59『大正十四年四月十四日(達七五)』
  54. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59『大正十一年四月一日(達四八)』
  55. ^ #達大正11年4月(1)pp.2-3『達第四十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十一年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎|軍艦ノ欄内「、千代田」「、津輕」「、周防」「沖島、」「見島、」「橋立、」「大和、」「武藏、」ヲ、驅逐艦ノ欄内「不知火、」「陽炎、」「薄雲、」「白雲、」「朝潮、」「村雨、」「朝霧、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雁、」「蒼鷹、」「鴿、」「燕、」「第六十七號、」「第六十八號、」「第七十號、」「第七十一號、」ヲ削ル』
  56. ^ #記念品の件p.4『御紋章|個|弍|千代田|艦首御紋章|大正十一年四月二十二日 千代田ヨリ返納』
  57. ^ #T15(S1)公文備考31/兵学校練習船千代田其他に関する件(1)画像35
  58. ^ #千代田夏島廃船p.4『練習舩千代田検査報告 大正十五年十二月二十日調』
  59. ^ #千代田夏島廃船画像1、昭和2年2月4日官房第101号の2『呉鎮第三二號ノ九四ノ六練習舩千代田及夏島廃船処分ノ件認許ス(終)』
  60. ^ #実験行幸pp.1-2『聯合艦隊ノ戰闘射撃及爆撃實験ニ行幸ヲ軍仰度件』
  61. ^ #千代田標的改造pp.1-2『呉海軍工廠ヲシテ首題ノ件左記ニ據リ施行セシムヘシ右訓令ス』
  62. ^ 昭和2年8月3日(水)海軍公報第176号 pp.9-10」 アジア歴史資料センター Ref.C12070309900 『○艦船所在○八月三日午前十時調【航海中】山城、(司令)帆風、羽風、秋風、太刀風(一日母島發―佐伯灣ヘ)』
  63. ^ #昭和天皇実録四巻747-748頁『(昭和二年八月)三日 水曜日(佐伯湾/航空母艦赤城を御巡覧/海軍関係者御陪食/夜間対空防禦教練)』
  64. ^ 昭和2年8月5日(金)海軍公報第178号 p.19」 アジア歴史資料センター Ref.C12070309900 『○艦船所在○八月五日午前十時調【佐伯】(長官)長門、陸奥、伊勢、(司令官)鬼怒、阿武隈、由良、(司令官)龍田、(長官)金剛、比叡、(司令官)加古、古鷹、神通、那珂、(司令官)夕張、(司令官)長鯨、鳳翔、扶桑、赤城、山城
    (司令)樅、榧、梨、竹、(司令)栂、柿、楡、(司令)菱、蕨、葦、菫、(司令)蓼、蓮、蓬、(司令)驅二八、驅二九、驅三〇、驅二七、(司令)驅一七、驅一五、驅一三、驅一九、驅二三、驅二五、(司令)梅、楠、櫻、橘、(司令)帆風、羽風、秋風、太刀風
    (司令)呂六四、呂六八、呂六三、(司令)呂六二、呂六〇、呂六一、(司令)呂六七、呂六五、(司令)伊五三、伊五二、伊五一
    鶴見、能登呂、間宮』
  65. ^ 昭和2年8月8日官報第183号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『◎御出港 天皇陛下ハ本月五日午前十時佐伯灣御出港豊後水道沖ニ於テ聯合艦隊ノ爆撃實驗御覽午後五時三十分豊後水道沖御發アラセラレタリ』
  66. ^ #S2公文備考31/軍艦 磐手に貸与中の特務艦 鳴戸内火艇返還の件画像15
  67. ^ a b #高松宮日記1巻265頁『八月五日 金曜日 曇后雨 八時半「山城」へ御いとまに行く。/九時半「長門」へ見学のため乗る。十時出港、「山城」の後に随ひて南下し、爆撃見学。五時半奉送して北上し十時四十分入港帰還(以下略)』
  68. ^ 『官報』第530号、大正3年5月7日。
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  70. ^ 『官報』第1900号、大正7年12月3日。
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参考文献

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  • 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。 
  • 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X 
  • 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 下』グランプリ出版、2001年5月。ISBN 4-87687-222-8 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。 
  • 『海軍軍備沿革』海軍大臣官房、1921年10月。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 宮内庁 編『昭和天皇実録 第四 自大正十三年至昭和二年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74404-6 
  • 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。
  • 『日本巡洋艦史』 世界の艦船 2012年1月号増刊 第754集(増刊第101集)、海人社、2011年12月。 
    • 中川努「千代田は防護巡洋艦か」2011年12月。 
  • 「世界の艦船増刊第46集 イギリス巡洋艦史」(海人社)
  • 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。 
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第一巻 大正十年一月一日~昭和七年十二月三十一日』中央公論社、1996年3月。ISBN 4-12-403391-5 
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 真鍋重忠『日露旅順海戦史』吉川弘文館、1985年、ISBN 4-642-07251-9
  • 「Conway All The World's Fightingships 1860-1905」(Conway)
  • 「Conway All The World's Fightingships 1906-1921」(Conway)
  • 官報
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『明治21年 達 完/9月』。Ref.C12070024500。 
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    • 『日露役旅順陥落迄の両国艦船勢力並亡失表(明治37年)』。Ref.C14120009500。 
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    • 『記念品の件』。Ref.C04015870600。 
    • 『連合艦隊の戦闘射撃及爆撃実験に行幸を軍仰度件』。Ref.C04015509300。 
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    • 『昭和2年 公文備考 艦船2 巻31/軍艦 磐手に貸与中の特務艦 鳴戸内火艇返還の件』。Ref.C04015607200。 
    • 『公文備考別輯 完 新艦製造部 千代田 明治20~24/軍艦千代田製造書(1)』。Ref.C11081476400。 

関連項目

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